先輩移住者インタビュー:大宜味村の特産品を世界へ届けるローカルフードクリエイター 池中尚子さん【前編】 |地域のトピックス|FURUSATO

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先輩移住者インタビュー:大宜味村の特産品を世界へ届けるローカルフードクリエイター 池中尚子さん【前編】

先輩移住者インタビュー:大宜味村の特産品を世界へ届けるローカルフードクリエイター 池中尚子さん【前編】 | 地域のトピックス

千葉県出身の池中さんは、現在大宜味村でローカルフードクリエイターとして『nun okinawa』という屋号で活動し、ご自身で生産・販売されているシークヮーサーバターは県内外で大人気商品となっています。ただそこに至るまでには、沖縄との出会い、東京での華やかな生活との決別、大宜味という地域との偶然の出会い、そして地域の方々と強い繋がりが出来るまで、と様々なプロセスがありました。

何度も訪れる転機を池中さんがどのように掴み、新しい展開をされていったのか、じっくりお話を伺ってきました。

先輩移住者プロフィール

名前:池中尚子(いけなか なおこ)さん
職業:ローカルフードクリエイター/nun okinawa
出身地:千葉県
移住年:2011年
移住地:大宜味村
家族構成:パートナーと猫4匹

大好きだった都心での生活、でも1週間の沖縄トリップで感じた、「私がいるべき場所」という感覚

生まれは愛知県ですが、子どもの頃に千葉に引っ越して、それ以来ずっと千葉に住んでいました。

沖縄に初めて旅行で来たのは、19歳の時です。当時は学生だったのですが、たまたま遊びに行った北谷のお店の人から、「寮もあるから働かないか」と誘われて、その時にちょっと本気で移住も考えたんです。でもまだ若かったこともあって決断できず、実現しませんでした。

ただその時の旅行で海の青さに衝撃を受けて沖縄が好きになり、そのあとも毎年のように遊びには来ていましたね。結局それが沖縄移住に繋がっているのかもしれません。

学校を卒業後、雑誌の編集部で2年間働いた後、アパレル業界に転身して高級ブランドも取り扱うショップでも働いていました。店舗運営のマネージャー職が長かったですね。内容は店舗のレイアウト作りからスタッフ育成、顧客管理、シーズンの企画など、本当にお店に関すること全部、という感じです。新宿の百貨店や、青山の路面店、ファッションビルなど、いろいろな店舗に勤務していて、アパレル業界には結局14年くらいいました。非常にやりがいのあるお仕事だったのですが、少しずつ自分の中でライフスタイルにずれを感じるようになっていきました。

というのも、社会人になってから、海が好きになって、サーフィンを始めるようになったんです。ラグジュアリーなものに囲まれる生活もそれはそれで好きだったんですが、海に通うようになってくると、あんまりモノに固執する感覚が薄れていったんです。

そんな時、友人が沖縄にサーフトリップをしに行くというので、連れて行ってもらったんです。1週間かけて、朝4時くらいからサーフポイントを巡ったり、1日ビーチでゆったりしたり、昼は市場で買ったマンゴーを食べて、夜は仲間と楽器を鳴らして歌って、という生活をしていたのですが、その時の仲間が皆、エネルギーにあふれているように感じたんです。 サーフトリップが終わって千葉に帰ってきて、翌朝自分の部屋で目が覚めたら、「なんでここにいるんだろう」という違和感を強く覚えてしまって、沖縄に移住したい!と強く思うようになりました。東京での仕事や同僚も大好きだったんですが、知らない間にストレスが溜まっていたんでしょうね。それが2008年くらいのことでした。

移住までに必要だった3年という期間、そして「食」で繋がる移住後の生活

そこから移住までに3年くらいかかっているんですが、その間に自分の身辺を整理しました。アパレルにいると、どうしても家の中には服やらバッグやら、モノが溢れてしまいました。それらと決別するために、売ったり譲渡したりして、この身一つで移住できるように身軽にしていった、という感じです。

また、会社には移住を考えていることを早めに伝え、後任への引継ぎも含めて、すり合わせを丁寧に行ったので、とっても円満に退職することが出来ました。家族の事情もあって、当初の予定よりも長い3年という時間がかかってはしまいましたが、私にとっては必要な期間だったなと、今でも思います。

あと、移住までの3年の間にもよく沖縄に来ていたので、友達も出来ていて、移住しやすい環境が整えられたというのも大きかったかな。

ちなみに移住をすることについては家族からの反対は特にありませんでした。私がしょっちゅう沖縄に行っていて、大好きなのも分かっているので、快く送り出してくれました。

移住する前からパンを焼くことにはまっていて、千葉に住んでいるのに月1回鎌倉のパン教室に通ったりしていて、移住後もパン屋で修行をしたい!と思っていたんです。昔から食への興味が強くって、特にみんなで食べる場の空気感が好きだったんですよね。

そうしたら、パン教室の先生のご紹介で、北中城のパン屋さんで働けることになったので、最初はパン屋として移住しました。本当は読谷に住んでそこから通いたかったんですが、家が探しきれなくて、北中城のお店の近くに住むことになりました。

そのパン屋さんではカフェも併設していたので、最初はパンを焼いていたんですが、そのあとにキッチンやフロアも担当しました。そこでは2年間ほど働いたでしょうか。

パン屋で働きながら、近くに住む友人がローフードの食材をネット販売しており、スムージー店もオープンしていたので、そのお店も手伝うようになっていきました。 そのあとも別の知り合いがお店をオープンするのを手伝ったりする中で、自分自身でもお店をやってみたいという思いが芽生え、パン屋さんで働きつつ、自分でも独自にパンを販売するようになっていきました。単に販売するだけじゃなくて、ローフードや味噌づくりのワークショップも開きました。当時は2011年というタイミングもあって、食に対する興味関心の高い人も沖縄に多く移住するようになっていたので、人も情報も集まりやすく、イベントはしやすかったです。私も色んなイベントに積極的に参加していって、知り合いを増やしていっていました。

大宜味村の山々の向こうに臨む海

 

沖縄での拠点を求める中で出会い、惹かれ、住み続ける「大宜味」という土地

移住直後は本当に色々と動き回っていましたね。自分自身のイベントだけじゃなくて、震災後、被災地の子どもたちの心のケアを目的とした保養キャンプが全国でよく開かれていたので、ボランティアで食事を作りに行くこともしていて、県内外を飛び回っていたんです。その中で、沖縄に「身軽に動き回れる拠点」が欲しい、という思いが強くなってきたんです。自分がいつでも帰って来られる、必要最低限の物だけが置ける、ミニマルなライフスタイルの場所を何とか確保したい、という思いですかね。そんな時、大宜味村在住の知人から「うちの庭に家を建てていいよ」と言われたので、小さな小屋のようなものを建てたのが、大宜味村に住むようになったきっかけでした。

その当時は、地域の様々な人に来てもらえる場所になればいいと思っていましたが、色々あって2年後にその場所を離れることになりました。ですが大宜味という土地の魅力に惹かれていたので、村内で引越しすることを決めました

大宜味村は借りられる家が無い、とよく言われるのですが、「家が無くて困っている」と知り合いに相談をしていったら、皆さん結構助けてくれるんですよね。それで、結局村内で5回くらい引っ越ししています。

大宜味に移住してからのお仕事として、加工品づくりも始めるようになりました。 最初のきっかけは、大宜味の山の上に住んでいた時に、人手不足の近所の農家さんやお店にヘルプに入っていたことでした。ある有機栽培農家さんのトマトづくりを手伝っていた時、規格外品がとっても多く発生するということを知ったんです。破棄しなければならない量が多くて勿体ないなと思っていたところ、雑談的に農家さんから「池中さん、これで何か作ったら?」と言われて、今までの経験も活きるので何か加工品をつくろうと思うようになりました。その時から、大量に作るのではなく、自分のできる範囲で少しずつ、道の駅にちょっと置いてもらって販売していく、ということをやっていましたね。

後編を読む|地域の力になりたい!と始めたシークヮーサーでの商品づくり、そしてこれからも広げていきたい地域との繋がり

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